
1991年、住友金属にジーコが来てから鹿島アントラーズの歴史が始まりました。ジーコスピリット・ジーコイズムが生まれた年といってもいいですね。
ここでは鹿島アントラーズの生みの親と言ってもいいジーコについて紹介します。
ジーコが日本にやってきた
サッカーの本場ブラジルのスーパースター「ジーコ」が、プロリーグのない日本のチームにやってきました。
ジーコが選んだのは鹿島アントラーズの前身「住友金属(略して住金)」。当時の住金は日本の中でも中級クラブでした。
読売(今のヴェルディ)や日産自動車(今のマリノス)には到底かなわないようなチームだったんです。
そんなチームに神様ジーコがやってきたということで、かなりのフィーバーになったのはよく覚えています。

ブラジルで一度引退したジーコは、日本でプロリーグが始まることを聞きつけてやって来たんです。
ジーコの素晴らしいところはトップクラブではなく、プロに入れるか入れないかという住友金属を選んだといこと。
リネカーやリトバルスキーなどJリーグ初年度には多くのスーパースターがいましたが、多くはプロリーグに入るクラブに来ています。

ジーコスピリットを植え付けた男
加入してからのジーコは、まだまだ粗削りな選手たちやチームスタッフたちに勝利のメンタリズム(今でいうジーコスピリット)を徹底的に植え付けていきました。
この頃の住金には、佐藤洋平・大野俊三・賀谷英司・石井正忠・眞中靖夫などがいました。
意外なところでは、仙台監督やリオ五輪監督を務めた手倉森誠もいたんです。当時の手倉森はパチンコなどに明け暮れ、どうしようもない選手だったようですが........。

そしてジーコが呼んで加入したアルシンド・サントス。本田技研からは古川昌明・本田泰人・内藤就行・黒崎久志・長谷川祥之など。
そして大学生ルーキーの秋田豊や奥野僚右を擁して、見事初代チャンピオン(ファーストステージ)を成し遂げました。
初年度のJリーグ加盟は99.9999%無理と言われたところからの、奇跡の優勝だったんです。
それもこれも鹿島アントラーズにジーコが来たから。そしてジーコスピリットを植え付けてくれたからです。
鹿島アントラーズの歴史は、ここから始まっていきました。

これからもジーコスピリットを継承して、さらにタイトルを積み重ねることを期待します。
ちなみにジーコというのはニックネームで「やせっぽっち」という意味です。本名は、アルトゥール・アントゥネス・コインブラ。
体の小さいやせっぽっちのジーコが「白いペレ」と言われるまでになるには、相当の努力はもちろん、人一倍負けず嫌いの性格ゆえなのでしょうね。
負けず嫌いの性格ゆえ、1993年のチャンピオンシップでは「ジーコのつば吐き事件」を起こします。
今では伝説となったつば吐き事件。詳しくは関連記事をご覧ください。